2013年9月22日日曜日

北条政子ゆかりの鎌倉史蹟めぐり☆

北条政子はこんな人です。

DATA
  • 保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)享年69歳
  • 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室
  • 父:北条時政(伊豆国の豪族)
  • 子供:頼家(鎌倉幕府第二代将軍)、実朝(鎌倉幕府第三代将軍)、大姫、三幡
伊豆国の流人だった源頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると「御台所」と呼ばれました。
頼朝の死後に嫡男・頼家が第2代将軍、次男・実朝が第3代将軍となると政子は子供達の将軍職をサポートする「尼御台(あまみだい)」と呼ばれました。
頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれました。

コース概要(★印は北条政子ゆかりの史蹟です)

①鎌倉駅西口
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②巽神社(たつみじんじゃ)
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③寿福寺(じゅふくじ)★
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④英勝寺(えいしょうじ)
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⑤稲荷大明神(いなりだいみょうじん)
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⑥岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)★
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⑦浄光明寺(じょうこうみょうじ)
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⑧鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・旗上弁財天社(はたあげべんざいてんしゃ)★
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⑨鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・舞殿(まいでん)★
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⑩若宮大路・段葛(わかみやおおじ・だんかずら)★
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⑪大功寺(だいぎょうじ)
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⑫本覚寺(ほんがくじ)
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⑬妙本寺(みょうほんじ)★
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⑭ぼたもち寺・常永寺(ぼたもちでら・じょうえいじ)
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⑮八雲神社(やぐもじんじゃ)
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⑯別願時(べつがんじ)
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⑰上行寺・癌封じ寺(じょうぎょうじ・がんふうじでら)
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⑱安養院(あんよういん)★
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⑲鎌倉駅東口
それではスタートです。
〔寺院の説明分は鎌倉市の案内板を基にしています〕

①鎌倉駅西口
 JR横須賀線または江ノ電から降りて西口に出ます。












①鎌倉駅西口⇒②巽神社(たつみじんじゃ)
 JR横須賀線沿いに歩くと、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工の五郎入道正宗の名刀「正宗」。伝統を受け継ぐ正宗二十四代山村綱廣氏のお店があります。











②巽神社(たつみじんじゃ)
 寿福寺の巽(南東)の方角にあたっていて、寿福寺の鎮守であったといわれています。











③寿福寺(じゅふくじ)★
 源頼朝が没した翌年、政子が明菴栄西(みょうあんえいさい)を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。政子の次男・実朝(鎌倉幕府三代将軍)も再三参詣しました。
 栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で「喫茶養生記」を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。
 裏山の「やぐら」〔中世の横穴墳墓(ふんぼ)〕には、政子、実朝の墓といわれる五輪塔があります。
 墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。

山門(総門ではありません)

参道

 中門(山門ではありません)










本堂










政子の墓











実朝の墓









④英勝寺(えいしょうじ)
 初期の江戸城を築城した大田道灌の子孫で、徳川家康に仕えたお梶の方(栄勝院)が道灌の屋敷跡に建てた尼寺です。お梶の方が一緒に行くと戦に勝利したことから、改名して、お勝という名になったそうです。
 お勝の方は、水戸徳川家の初代頼房の養母であったことから代々水戸家の姫が住職を務めています。江戸時代は水戸御殿と呼ばれたほど格式が高く、総門には三葉葵の紋を掲げ、さながら武家屋敷のような境内でした。
 仏殿、祠堂、唐門、鐘楼は江戸時代初期の建築で、これだけよくそろい、当時のままで残っている寺は貴重です。

総門









⑤稲荷大明神(いなりだいみょうじん)
 鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が小島にいたとき病床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。それが縁で幕府を開くことができたということです。この白ひげの老人が隠里稲荷の化身であったとのことです。

稲荷大明神









⑥岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)★
 亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから政子の娘・大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
木造地蔵の胎内の銘札にも「大日本国相太陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。
 「北条九代記」にも、いいなずけとの仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原などの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
 この堂は平成十三年に再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかにくれないをさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養しています。

岩船地蔵堂

正面に2つの小窓があり、お地蔵様のお参りができます。


小窓からのお地蔵様









⑥岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)⇒⑦浄光明寺(じょうこうみょうじ)
 扇川にはホタルがいます。

扇川









⑦浄光明寺(じょうこうみょうじ)
 鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、また、鎌倉公方(鎌倉幕府の長)の保護も受けました。
 本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。
 中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には「土紋(どもん)」といわれる鎌倉地方特有の技法が使われています。
 裏山には歌人・藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相(ためすけ)の墓があります。
 母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文「十六夜日記(いざよいにっき)」の作者です。

山門

本堂

楊貴妃観音

裏山の崖の松










境内のまんじゅしゃか









⑦浄光明寺(じょうこうみょうじ)⇒⑧鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
 浄光明寺を出て小町通りに差し掛かる途中に鎌倉市川喜多映画記念館(かまくらしかわきたえいがきねんかん)があります。
 鎌倉市川喜多映画記念館は、映画の発展に大きく貢献した川喜多長政・かしこ夫妻の旧宅跡に、鎌倉市における映画文化の発展を期して、2010年4月に開館しました。
 本記念館では、映画資料の展示、映画上映をはじめとし、映画関連資料の閲覧やWeb検索も行なっていただくことができます。また講座・講演会やワークショップなども年間を通じて開催いたします。
 建物は平屋建ての和風建築で、数寄屋造りのイメージを表現し周囲の環境に調和しています。板塀もかつての面影をそのままに復元しており、展示室の明るく広い開口部からは緑豊かな庭園も眺められ、古都鎌倉の落ち着いた雰囲気をかもし出しています。

鎌倉市川喜多映画記念館入口

鎌倉市川喜多映画記念館〔奥に旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)があります〕








⑧鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・旗上弁財天社(はたあげべんざいてんしゃ)★
 源平池の東の島にあり、社殿は八幡宮御創建800年(昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元したものです。頼朝公の旗上げにちなみ、源氏の二引きの旗に願をかける人が大勢います。
 社殿の裏側には「政子石」があります。夫婦円満の祈願石で姫石ともいいます。

旗上弁財天社・社殿










政子石









⑨鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・舞殿(まいでん)★
 舞殿は、静御前が義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊跡に建ち、下拝殿とも言います。


毎年4月の「鎌倉まつり」では「静の舞」が奉納されます。
鶴岡八幡宮では神前結婚式も挙げられます。「舞殿」と、本宮の御子神をお祀りする「若宮」が挙式の舞台となります。






若宮社殿









⑩若宮大路・段葛(わかみやおおじ・だんかずら)★
 源頼朝が妻・政子の安産祈願のため造営したと伝えられる由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へ通じる参道で、鎌倉のまちづくりの中心となりました。
 発掘調査によって、今よりも鎌倉駅側にひろがっていた広い道であることが分かっています。
 海岸側から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と並んでいて、二の鳥居と三の鳥居の間に残る段葛は、縁石を兼ねる葛石を置いたという意味をもつ道です。
 左右に飲食店、ブティックなどが並び、日本の道百選の一つに数えられています。


三の鳥居











若宮大路









二の鳥居












⑪大功寺(だいぎょうじ)
 初めは「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定で大勝したので「大功寺」に改めるようになったと伝えられています。
 室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由(あきやまかんげゆ)の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために「産女霊神(うぶすめれいじん)」を本尊としてお祀りしました。
 今も安産祈願の寺として「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。

大功寺









本堂










⑫本覚寺(ほんがくじ)
  一乗日出(いちじょうにっしゅつ)を開山として1436年(永享8)に創建されました。足利持氏(もちうじ)が鎌倉の夷堂(えびすどう)があった場所に寺を建てて日出(にっしゅつ)に寄進(きしん)したそうです。
 二代目住職が日朝上人(にっちょうしょうにん)であったことから、「日朝さま」という名で親しまれています。「日朝さま」は、眼を治す寺としてしられています。
 山門(仁王門)を入ると、右手に夷堂(えびすどう)があります。この夷堂は、鎌倉幕府の裏鬼門(きもん)という悪い方角に当たるということで、幕府の守り神として源頼朝が七福神のひとつである夷神をまつったところです。

本堂

しあわせ地蔵









⑬妙本寺(みょうほんじ)★
 妙本寺一帯の谷を比企谷(ひきがやつ)といい、源頼朝の重臣・比企能員(かずのり)らの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・義家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。
 その後、乱から逃れていた末子能本(よしもと)が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。
 4月から8月にかけて、桜、カイドウ、シャガ、ノウゼンカズラなどが鮮やかな花をつけ、静かな境内を彩ります。

二天門(奥は祖師堂)

一幡の袖塚

比企一族の墓

祖師堂











⑭常永寺・ぼたもち寺(じょうえいじ・ぼたもちでら)
 幕府に捕らわれた日蓮聖人は鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
 日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。
 こぢんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。

山門

本堂









⑮八雲神社(やぐもじんじゃ)
 八雲神社は「八雲さん」「お天王さん」の愛称で親しまれている大町の鎮守です。
 新羅三郎義光が兄の八幡太郎義家の助勢(後三年の役)のため奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄った際、疫病が流行っていたため、京都の祇園八坂社の祭神を勧請したのが八雲神社の始まりと伝えられています。
 室町時代には、佐竹屋敷の祠が合祀され「佐竹天王」とも称され、江戸時代には将軍より朱印も賜り、「祇園さま」として尊崇されました。
 明治維新を迎え、鎌倉祇園社という名称から八雲神社へ改称されました。
 7月の神幸祭は、神輿渡御で知られ、幼児を抱いての「みこしくぐり」は、子の無事な成長を祈願します。












⑯別願時(べつがんじ)
 別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えました。
 もとは真言宗の寺で能成寺といいましたが、1282年(弘安5年)、住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗し、同時に寺の名を別願寺としました。
境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる供養塔(宝塔)があります。
この供養塔には、持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されています。

 
石造りの供養塔










本堂









⑰上行寺・癌封じ寺(じょうぎょうじ・がんふうじでら)
 上行寺は日範上人(にちばんしょうにん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗の寺です。
 現在の本堂は1886年に名越松葉ヶ谷の妙法寺の法華堂を移築したものといわれています。
 本堂左手には1860年(万延元年)に桜田門外で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士のひとり、広木松之助の墓があります。
 松之助は上行寺にかくまわれていましたが、後にここで切腹をしています。
 1916年には広木松之助の碑が建てられました
 本堂には癌(ガン)はもとより、皮膚病、出来物、すべての病にご利益があるとされる「瘡守稲荷(かさもりいなり)」と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られています。













⑱安養院(あんよういん)★
 尼将軍と称される政子が夫の頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられています。その後、鎌倉時代末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は政子の法名です。
延宝8年(1680年)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかって建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。

つつじの生垣と山門




日限地蔵

政子の供養塔











宝篋印塔

 
⑲鎌倉駅東口
 こちらがゴールです。お疲れ様でした。


JR鎌倉駅東口